教育社会学の勉強・備忘録

教育社会学のお勉強メモ。Macユーザーのための記事もたまに書きます。

なんで大学院に進学しようと思ったか

最近大学院に進学した動機や理由を聞かれることが多いのですが、その都度進学をしようと思ったときの気持ちを思い出しながらしゃべっているので、言うたびに内容が変わらないよう一貫性を保つためにメモを残しておきます。

上から動機の強い順です。

  • 自分が受けてきた教育とは果たして何だったのかについて、そして結局教育とは何なのかについて、それなりに納得したい、と思ってしまったのが、他の選択をするよりも強かった
    • ただ、居酒屋のオッサンよろしく「僕の考えた最強の教育論」を語るのはダサいし、ぜんぜんスタイリッシュじゃないので、まあちゃんとそれなりに、客観的といわれる方法で、いろいろな知識にあたってみて、それで納得をしたいなと思った
  • もっと賢く、知的に強くなって、あの人の頭の使い方はカッコイイと言われるようになりたかった
  • 自分が40代くらいになるころには修士卒の社会人がたくさん増えるだろうし、修士くらいは取っておいたほうが後々にいろいろと機会が増えると思った(修士学位以上が必要な場所は今後ますます増えていくんだと思う)
  • 将来就きたいような仕事は修士卒を優先的に取るようなところだった
  • 4年で卒業したんじゃ何も勉強できっこないなあと思った
  • マスターってなんかかっこいい

以上は進学を決めた積極的な理由です。あまりアカデミックな動機でなくてスミマセン。知識に対する欲求が一番上に来ているだけでもお許し下さい。

そしてこれは進学したことによる思わぬ収穫だったのですが、高校時代の友人や学部時代の同期は社会人になった人が多くて、そういう人たちから仕事の話をいろいろと聞くことができました。

仕事ってそういうもんか、なるほど社会はそう動いていて、仕事の評価や賃金はそんな風に決まったりするのか、みんな普通に働いてるし自分もいけそうだ、という感じで、修士を出たらしっかり働こう、という気持ちの準備もできました。

あと、一番上の動機は実現しつつあります。


それと、さいきん、会う人会う人から、博士に進学すると思っていました、と言われるのですが、博士に進学する(つまり研究者になる)つもりはほとんどありません。

というのも、自分がこの学問に首を突っ込もうと思った動機は達成されつつあるという点で、継続するだけの情熱が既にあまりないというのがあります。

そして、とても優れた人たちが卑近な場所に両手では数え切れないほどいて、この人たちと渡り合うのは到底ムリだということを感じているというのもあります。

研究者という仕事はどうも、自分の腕一つで渡り歩いていくような感じがして、さらにどのように腕を磨いたらよいかの指針は、自分で能動的に探さない限り見つからないような印象があります。

一方、企業に就職すれば、研修はありますし、能力は形式的に評価されますし(つまりどのような能力をつければよいかがある程度標準化されているので、自分の中での指針が作りやすい)、個人をエンパワメントするための資源投下が会社や外部から積極的に行われるように感じます。もちろん全部がおんぶにだっこでないことは承知していますが、それでも研究者になるよりは、今何をすべきかがわかりやすいような気がして、自分の関心だけを糧にして突き進むような熱意も能力もない自分にとっては、組織の中で育てられる方が性に合っているな、と感じています。

また、誰かがTwitterで言っていましたが、「夏休みの8月31日が毎日来るような感じ」を数十年続けるのには耐えられなさそうだ、というのもあります。これはひとえに私のクオリティコントロールが甘いことによるのかと思われますが*1、いずれにしても、常に成果の量と質の向上が求められ、そうやって積み重ねた「業績」がある程度に達しない限りは身分や収入が不安定であり続ける、そのような環境に身を置いてうまくいきそうな気が、私にはあまりにもしないのです。

端的に言えば研究者になるだけの動機と適性がないと感じている、ということです。

というわけですので、自分は、別のところでささやかに頑張れたらいいかな、というくらいの心づもりで、残りの院生生活をじゅんぐりと使っていきたいと思います。

*1:つまり、成果物にどの程度のクオリティが必要であるのかを見極めたり、その成果物を産出するためのプロセスを計画することが苦手であるということです。これは企業に就職しても同じことですが、企業の方が学術的組織よりもクオリティコントロールに気を遣う度合いが段違いに高いために(例としては締め切りや納期に対する感覚)、私個人にクオリティコントロールの能力を与えようと積極的に働きかけてもらえるのではないかと思います。