教育社会学の勉強・備忘録

教育社会学のお勉強メモ。Macユーザーのための記事もたまに書きます。

「使いにくいモノ」が使いにくい理由は2つあると思う

「使いにくいモノ」が使いにくい2つの理由

「使いにくいモノ」が使いにくい理由の1つは、使うことに慣れていないから使いにくいということだ。

例えば、箸。何の変哲もないたった二本の棒だが、箸を普段使わない文化に属する人たちがすごく箸を使いにくそうにしているのを見る。

しかし昔から箸に慣れ親しんでいる僕は、むしろスプーンとフォークの方が汎用性が低く使いにくい食器であるように感じる。

ハンバーグプレートに残った1粒1粒のとうもろこしを、アメリカ人はどうやって食べているのか(食べていないのかもしれない)。箸があるだけでだいぶ食べやすくなる。

箸は、人間にとっては最初は使いにくいものかもしれないが、慣れればものすごく広い汎用性を持った食器なんだと思う。

そして、「使いにくいモノ」が使いにくい理由のもう1つの理由は、絶対的に使いにくいから使いにくいということだ。

根本的に何か使いにくい理由を抱えているモノは、やはり慣れたとしても使いにくいのだと思う。

こちらはあまり良い例が思い浮かばないが、なぜかと言うとおそらく、根本的に使いにくいものは淘汰されているから普段目に触れることがないのだ。

「慣れていなさ」と「絶対的な使いにくさ」の混同

ただ、この2つの「使いにくさ」について話すのにとても良い例がある。

Microsoft Windows 8 の「スタートボタン」である。

さきごろ発売された Windows 8 はだいぶ評判が悪かったようで、PCからスマートフォンまでデバイスによらずインターフェイスを統一するために、「スタートボタン」が廃された。これは大不評で、結局Windows 8.1では「スタートボタン」が復活することになった。

このときの風潮を傍目から見つつ(僕は Mac ユーザーである)、不思議だったのが、「スタートボタン」がないことは絶対的に使いにくいのだろうか、ということだった。みんな「スタートボタン」がないことに慣れていないから使いにくいということと混同していたのではないだろうか?

逆に、Windows が初めて世の中に出たときから「スタートボタン」がなかったとしたら、みんなそのインターフェイスに慣れていたのではないか。

そのような「スタートボタン」のない Windows に慣れていたのに、急に新しいバージョンに「スタートボタン」がついて、そこにいろいろなもの(ファイルやアプリケーションソフト、システムへのアクセスなど)が集約されているような情報の構造に変わったとしたらどうなっていただろうか。「スタートボタンを廃せよ」といったことをみんな言い出すんじゃないだろうか。

(ただし Windows が生まれた当時に「スタートボタン」が付くことは必然だったのかもしれないので、この仮定は実際にはありえないかもしれない。)

ただそうは言っても、今回は Microsoft が悪いと思う。たとえ「スタートボタン」を廃すことが絶対的な使いやすさを向上させることにつながることだったとしても、それをこのタイミングでドラスティックに変更するのは、ユーザー、というか人間という生き物の気持ちを考えていないと思う。

すでに慣れているものを捨ててまで新しいモノに慣れようとは、普通の人は思わないし、ましてや従来の「スタートボタン」に慣れている人の数が多すぎた。

世の中のユーザーは、絶対的な使いやすさの向上のためにメーカーに日夜フィードバックを送るような献身的なユーザーばかりではない。

大体の人にとって、「慣れているモノ」こそが使いやすいモノであって、だからこそ「慣れていなさ」と「絶対的な使いにくさ」の混同が起きるのだと思う。

とにもかくにも、「自分が慣れていないから使いにくい」というだけのことを、そのモノ自体が「絶対的に使いにくい」のだと決めつけるのは、とてもかっこわるいと思う。