齋藤純一『公共性』(2000年、岩波書店)を読んで
公共性と教育
もう半年前になりますが、卒論のテーマを考えているときに、ちょっと公共性に関する議論が気になったので、大学の図書館で借りて読んでみたのでちょっとまとめておきます。
僕の読みも浅いので、この記事に書いてあることが正しい理解だとは限りませんし、間違った部分はあると思います。こいつは何適当なことを言っているんだ、という感じのところもあるかと思います。
それでも僕がこの記事を書くのは、「まあ大体こんな概念が世の中にはあって、どのへんの議論とつながってるっぽい」ってことだけ、知りたい人に知ってもらいたい、という気持ちです。
なので、もし読まれた方は、絶対に鵜呑みにしないようにお願いします。また間違った部分を見つけた方がいらっしゃれば、ぜひご指摘いただければ幸いです。
また、ここに書いてあることは、大学で社会学なり政治学なりを普通に勉強している人だったら普通に知っている、というか「まあそうだよね」と思うことだと思うので、そういう人にとっては至極当たり前の話になるかと思います。
ただ、一部の人にとって至極当たり前の話というのは、なかなかその一部の人以外の人に伝わる機会がないのかな、という気がします。そういう僕も、例えば社会科学の分野の非常に基本的な教科書に載っている話でさえ、高校生くらいのときにこういう話を知っていたら、誰か教えてくれていたら、ということが未だに、非常に多くあります。なので、書きます。
- 作者: 齋藤純一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/05/19
- メディア: 単行本
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Amazonだとよくわからないですが、大きさはB6サイズでかなり小さいソフトカバーの本です。200ページもなく、結構スラスラと読めるかと思います。
まずわかったのは、「公教育は公共性のあるものである」というようなときに使う「公共性」という言葉と、この本で解説される「公共性」という言葉は全く違うものである、ということでした。
筆者は「はじめに」の章で「公共性」という言葉が用いられるときの主要な意味合いを3つ大別していますが、それは、
- 国家に関係する公的な(official)もの
- 特定の誰かにではなく、すべての人に関係する共通のもの(common)
- 誰に対しても開かれている(open)
ということでした。
教育などの分野で「公共的」といった場合には、普通は1つ目の意味に、若干2つ目の意味にかかってくるような感じですね。
3つ目の意味に関わるものといえば、例えば「公園の公共性」なんかはそうですね。
「公道の公共性」や、警察サービスなんかは、3つのどれにでも関わってくるものでしょうか。
公共性の再定義
この本が提示する「公共性」は、アーレントやハーバーマスの述べてきたようなものです。
簡単に説明するのは非常に難しいですが、上述の3点のような意味に限られないもっと広い意味です。
全てに対して「開かれている状態」とでも言うといいでしょうか、当然言論に対しては開かれているし、言論に対する批判にも開かれているし、言論を述べない者/述べることができない者にも開かれてなければいけないし、そのような状態のことを「公共性がある」と言っているようです。
それは何らかの概念・信念によって人々の統合を図ろうとする「共同体」とは違うし、すると当然国家とも違います*1。
ただしここで即座に気になるのが、そんな空間が存在しうるのかということであり、全てに対して開かれた状態にある人間というものはそうそう想定しにくいかと思われます。「生を奪われる」という事に関してまで開かれた状態であることはかなわないでしょう。
そうでないとしても、何らかのホメオスタシスが働いている以上、そもそも生物という点である部分において保守的であることは免れないでしょう。
公共性議論では、この人間の保守的な、無条件に守られたい部分まで公共性空間に含めることは考えておらず、そういった部分を「親密圏」という概念で定義しています。
「親密圏」の例を具体的に述べるのであれば、それは、家族、セルフケア・グループといったような何らかの共同体になります。
フェミニズム?
さて、公共的空間と親密圏の境界を議論してきた1つの大きな潮流は、フェミニズムでした。
「個人的なことは政治的である」(The personal is political)と、一時期のフェミニストは標語にしていたそうです。フェミニストが言ったのは、これまで「個人的な問題」「私的な問題」「家庭内の問題」として女性という個人に帰されてきた問題(「女性は能力が低いのだ」といったような物言い)は、「政治的な問題」「社会が作り出した構造」であるとしたものでした。
「女性そのもの」が問題であるのではなく、「女性をそのように扱うことに決まっていること」が問題なのだ、という議論の仕方です。
すなわち、抑圧された空間を公共性空間に開いて、私的である空間と公的である空間の境界設定を動かせ、というわけです。
このようなフェミニズムの運動も、公共性議論の発信源となっているようでした。「公私の境界設定」という問題は、「公共的空間と親密圏の境界設定」の問題ということになります。どこまでを議論に開いて、どこまでを議論から不可侵にするか、みたいなことでしょうか。
公共性議論の中で、フェミニズムは欠かせないものであるようです。これはこの本を読んで初めて知りました。
「政治的」という言葉
もう一つ、この本を読んで知ったこととして、「政治的」という言葉の意味です。公共性議論では、「政治的」という言葉は中立的に用いられています。
教育社会学畑では(というかもっと広く一般的にそうかもしれませんが)、「政治的」という言葉はどちらかというと、イデオロギー的というか、党派利害的というか、一部の権力を持っている人たちが、「民主主義的」というタテマエの元で何らかの1つの価値観に正統性を与える過程、のように捉えていますが、公共性議論の中ではそのような否定的な意味では用いられていませんでした。
むしろ、「議論が誰しもに開かれていること」を、「政治的」と呼んでいるそうです。「政治的空間」では、どんな意見も排除されず、意見が多様であること自体が重要であり、特定の価値観に縛られた言説の空間であってはならない、ということであり、そこに「イデオロギー闘争だ」というようなネガティブな意味は込められていません。
一方で政治は「決定する」という過程ももちろん必要であり、「政治的空間」においても、すべての人に開かれた言説の空間の中で、とりあえず妥当と思われる結論を出す、ということは行われます。
しかしその結論は常に批判的に改定されるべきであって、常に結論はアドホックである、という前提も共有されているべきであるようです。
(ちなみに、公共性空間と政治的空間の厳密な違いについては、はっきりとは理解できませんでした。)
何が「政治的」か
ここからは僕が考えたことになります。
公共性空間は、公共的な言論について開かれているだけではなく、「なにを公共的に議論するか」という議論も含んでいます。公私の境界設定をどうするか、どこまでを社会が解決する問題として扱い、どこからを個人に任せる問題とするか、ということが議論されます。
さて、ここで即座に思い当たる問題といえば、社会保障の問題でしょう。社会保障は、個人ではどうしようもできない問題のせいで困難な立場に置かれている人々を救う制度です。
さて、「個人ではどうしようもできない問題」とはなんでしょうか。
これはまさに公私の境界設定の問題です。
特に最近話題になっている生活保護の問題。生活保護に対して批判的な人々はこう言います。「彼らには努力が足りない。私は自らの努力でここまで勝ち上がってきた。どうして努力している我々が努力していない彼らに資源を配分しなければならないのだ」と。
社会学を専攻している人なら、こんなことは言わないでしょう。
個人の社会的成功は、「個人の努力」なるものでどれだけ説明できるのだろうか?たまたま裕福な家庭に生まれ、教育環境に恵まれていただけではないだろうか?まじめに努力して失敗してしまった人はどうなるのだろうか?「運」といって片付けるのだろうか?
生活保護を受けている人のうちどれだけが、「本人にはどうしようもできなかった問題」で困難な立場に置かれているのか?
…ということを僕は政治的な問題にしたいと思います。
この本をどうやって読んだか
この本を読んだとき、1回目はメモを取りつつ精読、2回目は電車の中でパラパラと読み返すような感じで読みました。
1回目は自室の椅子に座ってPCに向かいながら*2、集中して読んでいたところ、うおー難しいわけわからねーとなったのですが、もう一度読みなおしてみると案外そうでもなく、あのときは電車でパラパラと読み返しているときよりも頭が働いていなかったようです。(案外こういうことって結構ありますね。よね?)
この本では、新しい言葉・概念が出てきたときに、しっかりと定義を与えていて、その言葉・概念に当てはまる/当てはまらない具体例と、なぜ当てはまるのか/当てはまらないのかをまず説明してくれるので、そこをしっかりと掴んで読んでいけば、難しいとは感じないのではないかな、と思います。
*1:でも、「公共性のある空間」って、立憲民主主義が目指しているものそのものじゃないの?という疑問があるでしょう。でも国家は1つの共同体であることからして、公共性のある空間ではない。すると立憲民主主義を採用している国家は、公共性のある空間を作ることは不可能なのか?という問題にぶち当たります。
これは非常に現実的な問題です。「公共性のある空間」の理想的な状態というのは、本来は人間が存在している空間全てを(親密圏を除いて)包み込むものでなくてはなりません。しかしそんなことは可能なのか。
ここで、公共性のある空間を実効的に担保するにはどうしたらいいか、という具体的な問題が浮かび上がることになります。例えば国境を引くことは、近代立憲主義の理想とする、万人に対する等しい権利の保障、という見方からすれば理想的状態ではないけど、いまのところ実現しうる最良の状態なのかもしれません。