日本の教育社会学の歴史や性質を簡単にさらうために良さそうな論文
こどもの日ですね
今日はこどもの日ですね。都内ではほとんどあの大きな鯉のぼりを見かけないですが、場所がないんでしょうね。
教育社会学って何してるの?についてある程度教えてくれそうな論文
さて、本題です。教育社会学はその成立当時から半世紀以上にわたって、自らがどのような学問であるのかを規定する努力をしてきましたが、その基本的理解のための論文をいくつかまとめておきます。
これらの論文を読んでおけば、教育社会学という学問が何をしようとしているのか、なんとなく理解ができるんじゃないかな、と思います。
- 藤田英典,1992,「教育社会学研究の半世紀」『教育社会学研究』50,7-29
- 新堀通也,1992,「日本の教育社会学の特徴と問題点」『教育社会学研究』50,184-9
- 菊池城司,1999,「教育社会学の日本的展開」『教育社会学研究』64,39-54
- 潮木守一,2006,「転換点にたつ教育社会学―日本からの視点」『教育社会学研究』78,7-24
- 中村高康,2012,「テーマ別研究動向(教育)―教育社会学的平衡感覚の現在」『社会学評論』63(3),439-51
- 本田由紀・齋藤崇徳・堤孝晃・加藤真,2013,「日本の教育社会学の方法・教育・アイデンティティ―制度的分析の試み」『東京大学大学院教育学研究科紀要』52,87-116
最後の2つの論文以外はインターネット上で公開されていますので、J-Stageへのリンクをつけておきます。
社会学評論と東京大学教育学研究科の紀要(2013年10月28日追記:こちらは公開されたようですので、リンクを付けておきました)は通常すべてインターネット上で公開されているのですが、直近の巻号はまだ公開されていないようです。今年中には公開されるんじゃないかな、と思いますので、そのときにはご自身でお探しください。
また、この論文も良いよ、というものが何かありましたら、ぜひお知らせください。拝読の上、リストに追加いたします。
よくよく考えてみると
これらの論文を読んだり、まとめたりしていて思いましたが、日本の教育社会学は、「歴史や性質を簡単にさらう」なんてことが言えてしまうんですね。
(ちなみに誤解されては困りますが、「簡単にさらう」というのは「簡単にさらうことができる」という意味ではなく、「簡単な方法でさらう」「薄くさらう」という程度の意味です)
例えばこれが哲学だったら、「日本の哲学の歴史や性質を簡単にさらう」ような論文は、そもそも書けないような気がします。法学や経済学なんかもそんな気がします。
古くてデカい(?)学問は、簡単にさらうにはテーマが多すぎたり、考えることが多すぎたり、研究文脈が多すぎたりするような気がします。「簡単にさらう」という作業すらできない感じがします。
一方で日本の教育社会学ではなんでこんな芸当ができてしまうのかというと、
- 終戦直後に始まったと言われているほど若いために、歴史を追いやすい
- 連辞符社会学であって、教育という分野の決まった社会学の一分野であるから、哲学や法学、社会学のような古くてデカい学問に比べると比較的論じるべき範囲が狭い
という2つの点に加えて、
- やっぱり社会学である
ということではないかなと。もう少し言い換えると、「社会学という学問自体が自省的であることをその性質としてもつために、自省には慣れている」ということではないかな、と思います。
これだけじゃ何を言っているかわからずモヤモヤするかと思いますが、モヤモヤしていただけたなら、ぜひ論文を読んでみてください。1時間半もあれば全部読み終えます。
ちなみに
そもそも教育社会学は連辞符社会学であるのか、ということ自体が議論されています。本当に社会学の一分野に過ぎないのか、ということはずっと言われてきました。
また、なぜ自省的であるのか、ということそれ自体も議論されています。ただこちらのテーマは、どちらかと言うと教育社会学ではなく社会学の方でされているような感じではありますが。