教育社会学の勉強・備忘録

教育社会学のお勉強メモ。Macユーザーのための記事もたまに書きます。

法解釈学の勉強をしようと思います

実に4ヶ月ぶりの記事になってしまいました。4月に大学院に入学し、日々課題に追われる毎日です。

おことわり

さて、以下に書く内容は、法解釈学をほんのさわりだけ勉強しただけで書いていることです。したがっていろいろと厳密でない書き方があったり、そもそも正しくない内容があるかと思います。はたまた、以下に書く疑問は、既に通説の答えが出されている問題かもしれません。

ただ厳密でない、正確でないということは、一般人である私が、法解釈、あるいは「法」というものについてそれだけ誤解をしている、ということを示すことになります。

そして正しい内容を勉強したあとでこの記事を見返せば、自分がどのような誤解をしていたのかに気付くことができます。さらに法学初学者は何を勘違いしやすいのか、ということも明らかにすることができるでしょう。

この意味で、勉強したことを記しておく、というのは非常に意味のあることかと個人的には思いますので、ここに記しておきます。

法解釈とは

さて、「法解釈」には、「法律解釈」と「事実認定」の2つがあるそうです。

「法律解釈」というのは文字通り、法律を具体的事例に当てはめられるように、具体的に解釈をすることです。法律に「Aである場合はBせよ」と書いてある場合、「A」や「B」に当てはまる事象は具体的には何を指していて、何を指していないのか、その意味する範囲を確定する作業になるということです。

そして「事実認定」とは、「ある現象が起こった」と報告されたときに、本当にそれが起きているのか、起きているとすれば現象を厳密に記述してどういった原因によりそれが起きたかを明らかにすることです。

事実認定と因果同定

ここで社会学畑の自分がとても気になるのは、どのような認識論のもとで「事実」が「認定」されるのか、ということです。

司法の場においては、誰にどれだけ責任があるのか、本当に責任を負う必要があるのか、あるとすればどの程度の責任を負うのか(どの程度の刑が科されるのか、どの程度の罰金が科されるのか)、ということが問題になるかと思います。

この責任を確定させるために事実認定(と法解釈)が必要になるわけですが、事実認定には因果同定の作業が必ずどこかに入ってくるかと思います。判決文に「彼が〜〜をしたのは◯◯であったからだ。(だからこの程度の罰が科されなければならない。)」といった記述が現れれば、それは因果同定(と責任の確定)を行っていることになります。

ここで直ちに考えられる疑問は、「因果同定の作業というのは本来無限に可能であるのに、どうして「これが原因だ」と断定することができるのか」、という疑問です。

因果同定をどこでやめるか

例えば、Aさんがなにか法律に違反したとして、その原因はどこにあるのかといえば、Aさんを産んだ母親にあるのかもしれません。Aさんの母親がAさんを産まなければ、この法律違反は起こらなかったわけですから。

あるいは原因は、Aさんが違反当日に町で見かけた犬かもしれません。この犬を見たことが、Aさんの精神に影響を与え、法律違反につながったのかもしれません。

これは極端な例で、「風が吹けば桶屋が儲かる」のと同じくらい馬鹿げているかもしれません。しかし、ではどこで因果をたどるのをやめるのか(親までたどるのか?)、あるいは何を原因の候補として想定するのか(町で犬を見たことは原因となりうるのか?)という問題は馬鹿にはできません。

「そんなの常識的に考えればわかるじゃないか」という意見もあるかもしれませんが、では法解釈において「常識的」な考えとは何か?「常識的に考えて」で片付けてしまっては、司法は成り立たないのではないか?

因果同定と認識論

さらに言えば、法解釈は我々の認識論にも関わってくるものと思います。

例えば自殺を考えてみましょう。

なぜ人は自殺するのか?

その回答として、「その人の心が弱かったからだ、打たれ弱い人間だったのだ」というように、本人の性格や精神に全ての原因を帰する説明があるでしょう。

あるいは、「その人は会社で過重労働を強いられていて、辞めることもできず、そういう状況になれば人は誰でも自殺を考えてしまうだろう」というように、本人の環境に全ての原因を帰する説明があるでしょう。

前者の回答は、「人間というものは意思に基づいて自らを完全に統御できるものであるが、自殺するような人間はそのような意思が弱い。(だから自殺しない意思の強さを持った精神を持つ個人を鍛えよ)」という人間観、後者の回答は、「人間はそもそも意思に基づいて動いてなどおらず、環境に対して反応をしているだけでしかない。(だからそのような状況を生まないように社会が労働環境を改善せよ)」という人間観に立ちます。

さてどちらが正しい「因果同定」なのでしょうか。

では法解釈はどのような認識論に立つのか?

社会学はどちらかというと、後者の立場を取る学問です。もちろん「人間は全く意思を持たない」などというようなことはありませんが、環境は個人の行動に(意識的にも無意識的にも)かなり影響をあたえるものだ、という前提に立っています(厳密に検証したわけではなく、あくまで私が感じている社会学の風潮です)。

では法解釈はどのような認識論に立つのか?これを知りたい。

法システムにおいてヘゲモニーを握っている認識論が前者のような個人主義的な人間観であるとするならば、社会問題を個人ではなく社会のせいにするような社会運動は力を持ちにくいのではないか?

法システムにおける認識論は社会が構築しているものではないか?だとするならば、事実認定は構築物でしかない、という批判により、司法は崩壊しないか?

司法を法システム全体(つまり司法制度内部の人間だけでなく、司法制度を観察している司法に関係ない人間の認識や行動)にまで広げていいのかもよくわかりませんが、それも重要な別の問題系として定立することができます。

だいぶ長くなってしまいましたが、これが僕が法解釈学を勉強しようと思った理由です。

でもこういう話って、法社会学で既に議論されていることかもしれません。法社会学も全く知らないのでわかりませんが……

なにかわかったら、またブログを更新したいと思います。

追記

勉強した結果、残念ながら法解釈は法令の解釈を行なう行為を指すもので、事実認定についてはまた別のようです。残念。

「使いにくいモノ」が使いにくい理由は2つあると思う

「使いにくいモノ」が使いにくい2つの理由

「使いにくいモノ」が使いにくい理由の1つは、使うことに慣れていないから使いにくいということだ。

例えば、箸。何の変哲もないたった二本の棒だが、箸を普段使わない文化に属する人たちがすごく箸を使いにくそうにしているのを見る。

しかし昔から箸に慣れ親しんでいる僕は、むしろスプーンとフォークの方が汎用性が低く使いにくい食器であるように感じる。

ハンバーグプレートに残った1粒1粒のとうもろこしを、アメリカ人はどうやって食べているのか(食べていないのかもしれない)。箸があるだけでだいぶ食べやすくなる。

箸は、人間にとっては最初は使いにくいものかもしれないが、慣れればものすごく広い汎用性を持った食器なんだと思う。

そして、「使いにくいモノ」が使いにくい理由のもう1つの理由は、絶対的に使いにくいから使いにくいということだ。

根本的に何か使いにくい理由を抱えているモノは、やはり慣れたとしても使いにくいのだと思う。

こちらはあまり良い例が思い浮かばないが、なぜかと言うとおそらく、根本的に使いにくいものは淘汰されているから普段目に触れることがないのだ。

「慣れていなさ」と「絶対的な使いにくさ」の混同

ただ、この2つの「使いにくさ」について話すのにとても良い例がある。

Microsoft Windows 8 の「スタートボタン」である。

さきごろ発売された Windows 8 はだいぶ評判が悪かったようで、PCからスマートフォンまでデバイスによらずインターフェイスを統一するために、「スタートボタン」が廃された。これは大不評で、結局Windows 8.1では「スタートボタン」が復活することになった。

このときの風潮を傍目から見つつ(僕は Mac ユーザーである)、不思議だったのが、「スタートボタン」がないことは絶対的に使いにくいのだろうか、ということだった。みんな「スタートボタン」がないことに慣れていないから使いにくいということと混同していたのではないだろうか?

逆に、Windows が初めて世の中に出たときから「スタートボタン」がなかったとしたら、みんなそのインターフェイスに慣れていたのではないか。

そのような「スタートボタン」のない Windows に慣れていたのに、急に新しいバージョンに「スタートボタン」がついて、そこにいろいろなもの(ファイルやアプリケーションソフト、システムへのアクセスなど)が集約されているような情報の構造に変わったとしたらどうなっていただろうか。「スタートボタンを廃せよ」といったことをみんな言い出すんじゃないだろうか。

(ただし Windows が生まれた当時に「スタートボタン」が付くことは必然だったのかもしれないので、この仮定は実際にはありえないかもしれない。)

ただそうは言っても、今回は Microsoft が悪いと思う。たとえ「スタートボタン」を廃すことが絶対的な使いやすさを向上させることにつながることだったとしても、それをこのタイミングでドラスティックに変更するのは、ユーザー、というか人間という生き物の気持ちを考えていないと思う。

すでに慣れているものを捨ててまで新しいモノに慣れようとは、普通の人は思わないし、ましてや従来の「スタートボタン」に慣れている人の数が多すぎた。

世の中のユーザーは、絶対的な使いやすさの向上のためにメーカーに日夜フィードバックを送るような献身的なユーザーばかりではない。

大体の人にとって、「慣れているモノ」こそが使いやすいモノであって、だからこそ「慣れていなさ」と「絶対的な使いにくさ」の混同が起きるのだと思う。

とにもかくにも、「自分が慣れていないから使いにくい」というだけのことを、そのモノ自体が「絶対的に使いにくい」のだと決めつけるのは、とてもかっこわるいと思う。

卒論を書きながらずっと念頭に置いていたこと

必然的に導かれ得ないこと以外を書かない

卒論を書いている間は自分でも気づいていなかったけど、どうやら無意識に念頭に置いていたことがあった。

それは「必然的に導かれ得ることだけを書く」ということだ。つまり「必然的に導かれ得ないこと以外を書かない」ということだ。

これは面白い論文を書くことはとりあえず忘れて、「この論文はデタラメを書いてはいないな」と評価されるために必要な態度のことだ。だが論文を書く上で最低限必要な態度だ。

「必然的に導かれ得ること」とはつまり、「いくつか前提となる命題があった場合に、論理的な操作を踏んでのみ得られる結論」ということだ*1

これはものすごく自明で、誠実に論説文なんかを書こうと思ったら当たり前に重視されるべきようなものだけれども、みんななかなか実践しようとしていない感じがある。つい先ごろ読んだ岩波新書もそうだった。「わかっちゃいるけどできない」ことの典型例だろうか。

ちなみに、こうした意識は社会科学と自然科学ではまた違った意味を持つと思う。それについてはまた別の機会に書ければと思う。

論文の章立てと論理

そしてこの意識は、今回自分の書いた卒論の章立てにも自然に現れていたことに気づいた。

  • 1章では問題関心、研究の目的、研究の意義を述べる。
  • 2章では先行研究の検討を行う中で、2つのことを行う。1つは誰もやっていないということを確認すること、もう1つはこれまでに確認されている命題をいくつか紹介すること。
  • 3章以降で自分の手に入れたデータを開示する。
  • そして終章。
    • 1節で、先行研究から提示された命題と、自分の手に入れたデータを、全て一列に並べる。これを前提とする。
    • 2節で、そうして揃った前提から、導かれ得る結論を導く(ここで前提が足りないと気づいた場合は、2章とは別に必要な先行研究を引っ張ってくるのもアリ)。
    • 3節では、これまでに述べてきたこと全てに加えて、こういう仮定を置いたなら、こういう結論がもしかしたら出るかもしれない、という試論を行う。
    • 最後に、今後の課題を述べておく。

論文によっては、2章から終章まで、これまで知られている命題の提示→それらから導かれる論理的な結論の提示→さらなる命題を他にも提示→これと前述の結論をあわせてさらなる結論の提示…という進め方をしているものもある。これがいわゆる「理論系の論文」というやつだろうか。

得られた教訓

こうして論文構成というものを考える中で教訓として得たものは以下のようなことだ。

  • 「先行研究の検討」とは、先行研究の読書感想文を報告することでもないし、先行研究を読んだというアピールをすることでもない。そして、先行研究をブチのめすことは必ず行うべきだが、それだけではなく重要なことは、自分の論文で目標とする結論を導くために足りない命題を用意することを助けてもらう、ということだ。
  • 先行研究で示された命題と、自分の調査・データで示された命題から、結論を論理的に導く。それが現実世界と違うように思われる結論だとすれば、疑うべきは、1つに論文の中に論理の飛躍(=必然的に導かれ得ない結論を導いている)がなかったか、もう1つに最初に揃えてきた先行研究による命題や自分が調査・データで示した命題が現実世界と違っていた、という2つである*2。論理的推論が間違っていないかどうかと、用意した命題がそもそも現実世界と違わないかどうか、という2つの点検をするということである。
  • だから先行研究は大事だ。自分の持っているデータだけが大事なのではないし、自分の持っているデータだけから何か面白い結論を導くのはやめたほうがよい。たぶん並の人間にはそれは無理だ。

(「現実世界と違う」ということはどうやって評価するんだ、ということについては、まだ考えが及ばないので、とりあえずマジックワードということにしておきたい。)

さて、どんな論文でも、必ず論理的なアラ(粗)がある。結論を必然的に導けるような命題が足りていない、論理的に飛躍がある、などなど。アラを0にすることは不可能だが、しかし、アラが少なければ少ないほど良い論文となる可能性が高く、アラが多いければ多いほどそれだけで良くない論文と判断される可能性が高くなる(と思う)。

アラのあるなしは程度問題であって、このアラが一定の閾値を下回ると初めて、投稿論文なんかの審査の対象として堪えうるものになるんだろう。そしてようやく、面白いかどうか、という別の評価軸からの評価をすることが可能になるんだと思う。

今度はその「面白いかどうか」とはなにかについて考えられる余裕ができればよいな、と思う。

*1:命題論理的に書けば、いくつかの前提とは例えば A, A→B であり、結論は B である。A, A→B という前提から C や D は導かれ得ず、Bのみが導かれ得る。

*2:この2つしかないことは記号論理学的に証明できたような気がする